23 拍車がかかった。機業者の数も増え、それまで大小80余り だった尾州の織物工場は500軒を越えるまでになった。 二幅から四幅への移行 尾州が毛織物王国へと発展していった背景には、世界 の織物先進地の動向をにらみながら、二幅織機から四幅 織機へといち早く移行していった機業家たちの先見の明 と進取の精神があった。 四幅織機使用の先駆者は毛織服地セルジスの試作に 挑んだ片岡春吉で、1909(明治42)年にドイツから織機 を取り寄せ、試作を開始している。製品化の第1号は木全 角次郎で、ドイツから1913(大正2)年に四幅織機を5台 購入し、その後、三条の鈴木鎌次郎、稲沢の水谷宗次、一 宮の森菊次郎、奥町の伊藤谷三郎などが次々と採用に踏 み切った。 四幅織機への移行が進んだとはいえ、依然として国産 品と輸入品の品質の差が歴然としていたため、三条の鈴 木鎌次郎の呼びかけで、1923年に「四幅織物研究会」を 発足させ、四幅織物の技術向上や産地としての体制づく りについての話し合いを行った。 こうした基礎づくりが進んだことで尾州は四幅服地へと 切り替わっていくことになった。 染色整理の動向 のちに当たり前となる織機と染色整理が分業化される のは江戸時代末期である。機織は「織屋」、染色は「紺屋」、 整理は「艶屋」と呼ばれるようになった。 明治時代になると整理の技術を高めようという動きが 第1章 │ 創業前史と一宮整理の時代(~1923) ■国産毛糸の普及 日本毛織が梳毛糸を売り出したのは 大正元年のこと。その後、大正11年 前後には大垣の後藤毛織、大阪の大 阪毛織、三重の宮川モスリンの3社 が販売を始めるなど、国産毛糸の供 給も次第に増加していった。昭和に 入ると、着尺ネル、着尺セル、モスリン の和服用毛織物からサージ婦人児 服地など、洋服用毛織物が盛んにな るにつれ、生地糸は60番双糸の全盛 となった。
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