ソトー100年史 1923-2023

ソトー 年史 100 Anniversary ソトー100年史

100 Anniversary ソトー100年史

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本 社 04 2階事務所

05 技術研究所

第一事業部 ビーカー室 06

起毛機 出荷事務 ニット開反機 07

一宮事業部 低浴比高圧染色機 08

連続高圧蒸絨機 改質加工機 検反風景 09

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11 当社は、わが国有数の毛織物産地である尾州に、産地の有志の熱意と尽力によって1923年 (大正1 2年)に誕生して以来、2 0 2 3年(令和5年)2月2 5日をもって1 0 0周年を迎えることに なりました。 これもひとえにお取引様や株主様をはじめとする皆様のご愛顧とご支援の賜物であると、心より感謝 申し上げます。 大正に誕生し昭和、平成と長き時代の変遷を歩む中で、その道のりは決して平たんなものではなく 時に険しく幾度となく困難にも直面して参りましたが、それを乗り越え100周年という大きな節目を 迎えることが出来ましたことは、何より先人達や現従業員の弛まぬ努力によるものであり敬意を表す ものであります。 令和となった現在はと言いますと、全世界に新型コロナウイルス感染症が瞬く間に広まり、社会 環境や生活様式が大きく変化することとなりました。 また、SDGs、サステナブルへの対応、特に地球温暖化により脱炭素社会に対する人々の意識が 高まり、環境問題の重要性が強く認識されるようになりました。とりわけ繊維産業は大量生産による 大量廃棄が社会問題となっており、時代や産業が大きな転換点を迎えているように感じております。 当社は、70周年の節目にあたり、CIを導入し、社名を蘇東興業株式会社から株式会社ソトーと 改名し、新たな企業理念を策定しております。そして現在もその企業理念「企業の使命」「経営の 姿勢」「私たちの行動」は、経営のそして従業員の行動指針となっております。 この先、当社が切り開いていく道のりは、時に険しく変化が激しいものであろうかと思いますが、 常に企業理念を念頭に置きながら、迷うことなく一歩ずつ着実に前進し次世代に繋げてまいる所存 です。 そして、業界のキーインダストリーとして、産地のリーディングカンパニーとして、皆様の信頼と期待に お応えすべく、社員一丸となって、先人達より引き継いだ染色加工技術の蓄積を糧に、常に時代の 変化とニーズを的確に捉えた技術開発に努めてまいりますので、皆様におかれましては、今後とも なお一層のご支援、ご指導を賜りますようお願い申し上げます。 令和5年2月 取締役社長 上田 康彦 創立100周年のご挨拶

12 第1章 創業前史と一宮整理の時代(~1923) 1 .尾州と毛織物 古くからの織物産地 二幅から四幅への移行 染色整理の動向 工毛会の誕生 2. 一宮織物製整設立の挫折 一宮織物製整の発足 思いがけない挫折 3. 一宮整理の創業 新会社の再発足 地元の有力機業家が結集 新工場用地を購入 第2章 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) 1. 蘇東興業の誕生 蘇東興業への社名変更 操業の開始 2. 草創期の経営 余儀なくされた職工の解雇 好況に転じた毛織物業界 目 次 22 22 23 23 24 25 25 25 26 26 26 27 30 30 30 31 31 33

13 3. 超繁忙期から苦難の時代へ 再び赤字転落 増える従業員 県営検査の開始 尾州の織物業界 アンゴラサージの国民服の染色整理 世界恐慌の中で 超繁忙期から業績不振へ 津島出張所の開設 軍需品の染色整理 4. 戦時統制下の経営 協和興業有限会社の設立 絨氈部と中部製絨の合併 工場を岡本工業に転用 第3章 事業環境激変のなかでの急成長(1946~1962) 1. 戦後の混乱のなかの操業再開 大同毛織の資本参加と支援 操業の再開 2. 設備の拡充と社内体制の整備 設備の拡充による業績の伸長 資本金の増資と創業25周年記念 一宮工場の操業開始 社内体制の整備 新たな資本金の増資と高松宮殿下の来社 33 33 34 35 35 36 37 38 39 40 41 41 42 43 46 46 46 47 47 48 48 49 49

14 3. 名古屋証券取引所に上場 株式の上場 フラノ旋風の到来 栗原社長の復帰 蘇東シュランクの売り出し 復興10周年記念式典の開催 4. 佐野工場の操業開始 栃木県佐野市に進出 東京株式市場での店頭売買 本社第二工場の落成 一宮工場と佐野工場の増強 蘇東学院の発足 求められた継続的な技術開発 第4章 グループ化を経て50周年を迎える(1963~1973) 1 . 40周年とグループ化のスタート 本社新社屋の完成 創立40周年を迎える グループ化に着手 栗原会長・藤本社長体制のスタート 関絨の再建に協力 2. 合繊ブームとアパレル産業の台頭 合繊ブームの到来 染色整理の総合企業グループへ 50 50 51 51 52 52 53 53 55 55 56 57 57 60 60 60 61 62 63 64 64 65

15 3. グループ化の推進 日本化繊の誕生 丹菊染色整理工場と業務提携 蘇東整絨の誕生 蘇東商事の設立 相次ぐ関連会社の誕生 八州整染の分離独立 グループ化の完了 4. 創立50周年を迎える 創立50周年記念式典の開催 第5章 オイルショック後の経営改革と計画経営の開始(1974~1988) 1. オイルショックによる激動 第1次オイルショックの発生とその対応 第2次オイルショックの発生と省エネ運動 捺染事業の廃業 18年ぶりの増資 染色研究所の開設 丹下恒一社長の就任 QCサークルの発足 2. 第1次中期経営計画の策定 中期ビジョン策定の背景 第1次中期経営計画の推進 工業用水への転換 東亜紡織と業務提携 65 65 67 67 68 69 70 71 72 72 74 74 75 76 76 77 78 78 80 80 80 81 82

16 都倉吾一社長の就任 3.100億円企業へ 第2次中期経営計画の策定 増資の実施 100億円企業への道 第6章 新たな企業理念のもとでソトー誕生(1989~1993) 1 .第3次中期経営計画の策定 第3次中期経営計画の発表 関係会社の再編 2. 研究開発の強化 技術研究への取り組み シルケット加工の展開 シワ加工の展開 コールド・パッド・バッチ染色の展開 ウールのウオッシャブル加工の進展 セラータシリーズの展開 多品種小ロット生産システムの構築 3 . CI導入と第4次中期経営計画 CI導入を決定 新しい企業理念を制定 第4次中期経営計画の策定 83 84 84 84 85 88 88 89 90 90 91 91 91 92 92 93 94 94 95 97

17 4.70周年の社名変更 新社名のもとで70周年を迎える 第7章 新生ソトーを目指した基盤の強化(1994~2002) 1 .質を重視した経営の推進 多様化する市場ニーズに対応した差別化加工技術の開発 生産管理体制の整備 不動産事業の開始 2.コスト低減の取り組みによる経営効率化の推進 伴野良樹社長の就任 新物流システムの本格稼働 賃金制度の改正とリフレッシュ休暇の導入 早期退職者優遇制度の実施 子会社の工場閉鎖 第8章 繊維事業をタテおよびヨコに拡大・伸長(2003~2017) 1 .企業価値向上に向けた経営改革 馬淵嘉明社長の就任 米国系投資ファンドによる株式公開買付け 対抗策の実施と株主への利益還元策 ナノサイズ技術を応用した差別化加工技術の開発 事業拡大を目指しベンチャー投資ファンド設立 グループ会社4社を完全子会社化 ダイドーリミテッドとの業務提携 98 98 100 100 100 101 101 101 102 103 103 104 106 106 106 107 108 108 109 109

18 2. 新たな飛躍に向けて中期経営計画の策定 高岡幸郎社長の就任 中期経営計画(2007-2009)の策定 テキスタイル事業部を新設し繊維事業を垂直展開 ワールドとTキューブを設立 ソトープラザ、関東整染、ソトーテクロス、カンセン商事が合併 重油からガス燃料への転換 ソトージェイテックがいわなかのテキスタイル事業を承継 ソトージェイテックでの佐隆事業部の発足 「ソトー生産革新」を推進 2010年3月期赤字決算を計上 3. テキスタイル事業と一体になったグローバル展開を推進 中期経営計画(2010-2012)の策定 艶金興業の染色加工業を承継 ワールドと合弁でJファブリック・インターナショナルを設立 3工場体制の構築 ベトナムの28 CORPORATIONと業務提携 4「. 感性技術」を基盤に安定的・持続的成長を志向 エポックとなった3つの加工技術 感性を訴求する各種の差別化加工を開発 既存加工法のさらなる進化 積極的な自動化への投資 中期経営計画 SOTOHイノベーション2017(2015-2017)を策定 モーリタンの染色加工業を承継 バーンズファクトリーを子会社化 東京証券取引所第二部より第一部へ指定変更 兒玉毛織を子会社化 111 111 111 112 114 115 115 116 117 118 118 119 119 119 120 121 122 123 123 125 127 129 129 130 130 131 132

19 第9章 優れた感性と技術で新たな価値の創造へ(2018~2023) 1. 染色加工事業とテキスタイル事業の連携強化 上田康彦社長の就任 消費者向け寝具ブランドの立ち上げ スポーツ・インナー・ユニフォーム素材の強化 新たな加工技術の開発 ベトナムの28 CORPORATIONとの業務提携の解消 染色加工事業で工場を集約 BtoCブランドの開発 SDGsへの取り組みと地域社会への貢献 コロナ禍での厳しい事業運営 2. 創立100周年を超えて 創立100周年を迎える 次の100年に向けて グループ会社紹介 資料編 年表 134 134 134 135 136 137 138 139 140 142 143 143 143 145 153 175

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〜1923 第1章 創業前史と一宮整理の時代

22 第1章 創業前史と一宮整理の時代(~1923) 1.尾州と毛織物 古くからの織物産地 尾州と呼ばれた愛知県一宮市一帯は、古くは大和時代 から織物が盛んな土地であった。尾張一宮で広く崇敬を 集める真清田神社の祭神・天萬栲幡千幡比売命(あめの よろずたえはたちはたひめのみこと)は梶の葉から織物を 作った機織の神と伝えられ、この他にも尾張一宮には織 物の神を祭った神社が多い。奈良・平安時代にかけてこ の地方では米に代わって絹や麻などの布が年貢として納 められていた。 尾州の織物は鎌倉から江戸時代にかけては絹が中心 であったが、江戸時代末期から明治時代中期には木綿が 加わって、絹綿交織の尾州縞として知られた。 その尾州が毛織物の産地へと転換するきっかけとなっ たのは1891(明治24)年に発生した濃尾地震であった。織 物業者の工場や機械が軒並み被害を受け、綿の原料を作 る木綿畑も壊滅的な打撃を受けた。再建を図りたい機業 家が綿に代わって注目したのが、ちょうどその頃から輸入さ れるようになった純毛の服地用セルジスであった。 そうした機業家の一人に、津島の片岡春吉がいた。片岡 は1903年にドイツ製服地のセルジスを使って純毛二幅着 尺セルの織りにわが国で初めて成功し、同年、大阪で開催 された第5回内国勧業博覧会にこれを出品し、好評を博し た。その結果、尾州一帯であとに続く業者が増え、尾州はセ ル織で知られるようになった。1914(大正3)年に第一次 世界大戦が始まるとドイツなどからの毛織物の輸入が途絶 え、これを補うかたちで国内での和服用着尺セルの生産に 第1章 │ 創業前史と一宮整理の時代(~1923) ■一宮七夕まつりの始まり 牽牛、織女の二つの星が天の川で年 に一度の逢瀬をもつ日が七夕。七夕 祭は棚機祭ともいい、機で織り上げ た神御衣を神棚に捧げ、祖神、祖霊 を祭る日とされている。織女は棚機 姫神で、服織神社の祭神・萬幡豊秋 津師比売命のことである。その加護 に感謝し、今後の繁栄を祈って昭和 32年7月14日に始まったのが、一宮 七夕まつり。商店街が競い合う飾り 物や催し物は年を追うごとに盛大に なり、現在は仙台、平塚とともに、日 本三大七夕祭の一つと称されるまで になった。 片岡春吉

23 拍車がかかった。機業者の数も増え、それまで大小80余り だった尾州の織物工場は500軒を越えるまでになった。 二幅から四幅への移行 尾州が毛織物王国へと発展していった背景には、世界 の織物先進地の動向をにらみながら、二幅織機から四幅 織機へといち早く移行していった機業家たちの先見の明 と進取の精神があった。 四幅織機使用の先駆者は毛織服地セルジスの試作に 挑んだ片岡春吉で、1909(明治42)年にドイツから織機 を取り寄せ、試作を開始している。製品化の第1号は木全 角次郎で、ドイツから1913(大正2)年に四幅織機を5台 購入し、その後、三条の鈴木鎌次郎、稲沢の水谷宗次、一 宮の森菊次郎、奥町の伊藤谷三郎などが次々と採用に踏 み切った。 四幅織機への移行が進んだとはいえ、依然として国産 品と輸入品の品質の差が歴然としていたため、三条の鈴 木鎌次郎の呼びかけで、1923年に「四幅織物研究会」を 発足させ、四幅織物の技術向上や産地としての体制づく りについての話し合いを行った。 こうした基礎づくりが進んだことで尾州は四幅服地へと 切り替わっていくことになった。 染色整理の動向 のちに当たり前となる織機と染色整理が分業化される のは江戸時代末期である。機織は「織屋」、染色は「紺屋」、 整理は「艶屋」と呼ばれるようになった。 明治時代になると整理の技術を高めようという動きが 第1章 │ 創業前史と一宮整理の時代(~1923) ■国産毛糸の普及 日本毛織が梳毛糸を売り出したのは 大正元年のこと。その後、大正11年 前後には大垣の後藤毛織、大阪の大 阪毛織、三重の宮川モスリンの3社 が販売を始めるなど、国産毛糸の供 給も次第に増加していった。昭和に 入ると、着尺ネル、着尺セル、モスリン の和服用毛織物からサージ婦人児 服地など、洋服用毛織物が盛んにな るにつれ、生地糸は60番双糸の全盛 となった。

24 出始め、1897(明治30)年に「尾西織物整理組合」が結 成され、質の高い仕上げの研究が本格化した。しかし、明 治末期から大正初期にかけての毛織物の生産技術の発 展と比べ、整理技術は遅れており、大手機業家のなかには 自ら海外から整理機械を取り寄せるところも出てきた。そ うしたなか、機業家の間では近代的な整理専門業者の出 現を望む声が高まり、それに応えるかたちで1911年、起 の艶金が新たに機械を導入し、整理の仕事を引き受ける こととなった。 工毛会の誕生 1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まり、戦争需要 による好況が続いたものの、戦火が収まると不況に陥り、 その影響は尾西の織物業者にも及んだ。1920年には世界 的な経済恐慌が発生し、機業の休業、倒産が相次いだ。 これを教訓として、尾西の機業家の間で原糸の円滑な 流通や安定した取引を目的に結束を高めようという機運 が生まれ、1922年10月に工毛会が結成された。 結成にあたっては、尾州への輸入毛糸の供給を一手に 引き受けていた三井物産名古屋支店が積極的に動き、当 初のメンバーは、稲沢の水谷宗次(水谷工場)、起三条の 山本直右衛門(山直工場)、同鈴木鎌次郎(鈴鎌工場)、 起の小川留三郎(小留)、起町小信の長谷川伊蔵(長谷 川毛織)、三条の山内市重郎(山内織物)、起の後藤辰一 郎(毛織物問屋・国島商店)の7人であった。のちに、三条 の渡辺玉三郎(渡玉工場)も加わった。 工毛会では毛糸市況を研究しつつ海外から原糸を直 輸入して市場操作にも乗り出し、工毛会の経済的安定を 第1章 │ 創業前史と一宮整理の時代(~1923) ■起の起源 旧起村は興、屋越、小越、小起、起な どと書かれるが、俗に、伊勢の国長島 の絹屋が当地に移り住んだので絹屋 越し、すなわち絹屋起となったといわ れる。尾張名所図会には「むかし八 丈絹を当村より織りだし朝貢にもし 又諸国へもあがてり、庭訓往来に尾 張八丈とある名産なり(中略)村名を 絹屋起というもむかしの名残の里の 名なるべし」と記されている。しかし、 起町史などによると「興」が正しく、興 も起も同じ意味で、絹屋が発達した 新興地であろうとされている。

25 図りながら糸の安定供給を支えた。 2.一宮織物製整設立の挫折 一宮織物製整の発足 明治から大正時代にかけ、尾西における毛織物整理は 艶金が一手に引き受ける状態であったが、第一次世界大 戦(1914~1918)後の復興で毛織物の生産が急激に増 え、艶金1社では対応できなくなっていた。そこで有力な 機業家や問屋の集まりである工毛会が中心となって、整 理工場をつくろうという機運が盛り上がった。設立準備 は1922(大正11)年から始められ、鈴木鎌次郎や片岡春 吉、三井物産名古屋支店の木田朝次郎、日本毛糸の高木 四郎の支援も得ながら、「一宮織物製整株式会社」の 設立を決め、株式の募集を開始した。 思いがけない挫折 株式の募集は起、奥町、一宮の機業家を中心に進めら れ、1922(大正11)年9月には額面50円の1株につき20 円の第1回払い込みが行われ、32人の株主から合わせて 1,020株、2万400円の払い込みがあった。構想が着実に 進んだことで、高木は新会社ができ次第日本毛糸を退社 して新会社の経営に専念し、稲沢の水谷宗次が社長に就 くことになっていた。 ところが設立を目前にした1922年秋、この二人が突 然病に倒れるという事態が起こってしまった。水谷は翌 1923年1月に48歳の若さで他界し、高木は腸チフスにか かって3か月の入院を余儀なくされた。 第1章 │ 創業前史と一宮整理の時代(~1923) 一宮織物製整株式会社株式払い込み (大正11年8~9月)

26 第1章 │ 創業前史と一宮整理の時代(~1923) 新会社設立の中心人物2人を欠いたことで、3,000株 の株式募集も滞り、商法に定めた一定期限内の設立登記 にこぎ着けることができなくなった。株の払込金は1922 年12月上旬をもって全額返金することになり、尾西の機 業家たちの思いの詰まった毛織物整理工場の建設の夢 はついえることになった。 3.一宮整理の創業 新会社の再発足 一度はついえた整理会社設立の動きだったが、業界の 将来を考えると新しい整理会社がやはり必要であるとの 考えから、水谷毛織工場の支配人格であった武田相之助 (あいのすけ)が中心となり、高木 四郎と水谷宗次の思 いを継いで精力的な活動を開始した。経営陣には新しく 墨合名会社の墨清太郎、一宮の染色業者であった平松 茂、同じ一宮の機業家の森菊次郎などが加わり、新会社 設立に向けて動き出した。 再発足した新会社は「一宮整理株式会社」と命名さ れ、創立事務所を一宮市大字一宮字四ツ山7番に置き、 1923(大正12)年1月に看板を掲げた。 資本金は15万円、発行株数を3,000株とし、株式の募 集を開始した。第1回払込金は50円株1株につき、25円 で、同年2月24日に3,000株分の払込みが完了した。 地元の有力機業家が結集 一宮整理は尾西を中心として主な機業家と実業家が 株主として名を連ね、総勢56人を数えた。発起人は水谷

27 直次、山本與三郎、後藤辰一郎、長谷川伊蔵、鈴木鎌次 郎、墨清太郎、森菊次郎、高木 四郎、片岡春吉の9人で あった。 1923(大正12)年2月25日、創立事務所にて56人の 株主のうち29人が出席して新会社の創立総会が開催さ れた。発起人の長谷川伊蔵が議長となって創立に関する 事項報告がなされ、定款の承認、取締役7人、監査役の3 人が選任された。 経営陣は以下であった。 代表取締役社長 長谷川伊蔵(長谷川毛織工場) 代表取締役常務 鈴木鎌次郎(錫鎌工場) 取締役 山本與三郎(山直毛織) 取締役 後藤辰一郎(国島商店) 取締役 墨清太郎(艶金興業) 取締役 平松茂(平松染色工場) 取締役 高木 四郎(日本毛糸) 監査役 森菊次郎(森菊毛織) 監査役 武田相之助(水谷毛織工場) 監査役 山内市重郎 工場予定地は一宮市大字一宮字南三昧越37番地で、 起や三条の機業地に近く、ほとんどが田畑であった。この 一帯の土地2,512坪を坪当たり14円余、総額3万5,420 円69銭で購入し、1923年3月26日に登記した。工場がで きるまでの仮事務所は八幡町1丁目に置いた。 新工場用地を購入 1923(大正12)年6月29日、一宮整理の第1回の定時 株主総会が開催され、病気療養から回復した高木 四郎 第1章 │ 創業前史と一宮整理の時代(~1923)

28 第1章 │ 創業前史と一宮整理の時代(~1923) が代表取締役常務に選任され、2人常務体制となった。 7月末には主要整理機械12台を総額5万3,438円で発 注し、以降、夏から冬にかけて縮絨機、蒸気刷毛機、水圧 光沢機、3本カレンダーなどを次々と発注していった。いず れもドイツ製の最新鋭機であった。 1923年11月3日、一宮整理は愛知県に対して工場設 置願いを提出したが、翌1924年3月3日になって愛知県 はこれを不許可とした。理由となったのは工場のばい煙が 隣接する国立の桑園を害する怖れがあるとの指摘であっ た。近くには養蚕試験場もあり、工場建設に反対する人も 少なくなかった。 一旦建築準備を止め、重役会を開催し、最終的に一宮 市内を諦め、新しい土地を探すことになった。候補地とし て起・三条方面を中心に探し、起町三条字籠屋の野府川 沿いの土地を選び、1924年6月の重役会で正式決定さ れた。田畑を中心とした約2ヘクタールの土地を10アール 当たり810円で購入した。工場の設置許可は1924年9月 26日に下りた。 工場建設地が変わったことで仮事務所も三条に移っ た。その後、役員層の確執から株式払い込みが遅れた ものの、1925年1月に完了した。なお、確執の影響から 1925年6月の株主総会で高木常務が退任し、同年12月 には長谷川社長も辞任した。 こうして当社の設立に向けた助走が終了した。

1924~1945 第2章 蘇東興業の誕生と戦時下の経営

30 1.蘇東興業の誕生 蘇東興業への社名変更 一宮整理は1924(大正13)年6月の重役会で当初予 定していた一宮市から起町の新しい土地(中島郡起町大 字三条字大道南15番地)への移転を正式に決定し、さら に同月に開催された第3回定時株主総会で新しい社名へ の変更を決定した。蘇東興業(以下当社)の誕生である。 社名の「蘇」は中国の蘇水、蘇江に由来し、日本ライン の絶景を紹介した紀行文「下岐蘇川記(岐蘇川ヲ下ルノ 記)」(斉藤正謙)をはじめ、「岐蘇名所図会」(嘉永年間) など、木曽にこの「蘇」を使ったものが散見され、木曽川も 「岐蘇川」と書かれたものもあった。そこから木曽川の東 側一帯を「蘇東」と呼ぶようになり、大正時代の尾西では 蘇東耕地整理組合、蘇東用排水土地改良区、蘇東料芸 組合、蘇東線などの名称がみられた。新会社はその立地 から「蘇東」と命名されることになったのである。 また「興業」は新たに事業を始めるという意味だが、の ちには染色整理の代名詞として使われるようになった。 1924年7月11日、一宮区裁判所で商号の変更、本店 移転の登記を行い、正式に発足となった。同年10月には 後藤取締役の紹介で後に当社の社長となる服部秀三郎 が支配人として入社した。1925年には辞任した長谷川伊 蔵を継いで山本與三郎が社長に就任した。 操業の開始 1925(大正14)年4月15日、木造瓦葺平屋建て307.5 坪の整理工場と39.5坪の汽缶室(第一ボイラー室)が完 第2章 蘇東興業の誕生と戦時下の経営 (1924~1945) 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) ■社章 社章の菱Sマークの原形は、一宮整 理株式会社の創立準備の段階で高 木 四郎が考案したもので、当初は 菱形の枠の中に"一宮"のIと“整理” のSを陽と陰に組み合わせてあった。 枠の菱形は当時外国の繊維関係の マークに多く見られたという。 新しい会社のマークはこれをアレン ジして、菱形の中にS一文字とし、Sは 社名の“蘇東”の頭文字を示すことと なった。当社の菱Sマークの誕生以 来、整理屋、染色屋、繊維関係会社の マークに菱形が目立つようになった。

31 成した。この間、ロープ洗絨機、幅出機械、湯熨斗(ゆの し)機、剪毛機、電動機類を発注し、順次、工場への設置 を進めていった。5月1日には名古屋高等工業学校出身の 染色技術員を採用した。同年8月には事務所(33.36坪)、 寄宿舎(91.88坪)、食堂(12坪)、浴場(10.6坪)を完成 させ、門前では社宅の建築を完了した。 1925年10月下旬から整理工場の試運転を開始し、11 月10日に操業を開始した。会社創立から2年8か月、一宮 織物製整の誕生から3年半近い年月を経ての操業開始で あった。同年12月1日には染色工場と倉庫も完成した。翌 1926年3月下旬に染色機械の据え付けを完了し、4月下 旬から試運転を開始した。 1926年は他の機械類の増強も行った。国産の起毛 機、幅出乾燥機、立蒸機、外国製のロータリー各1台をは じめ、中古の乾燥機、縮絨機、洗絨機、ペーパープレスな どである。さらに翌1927年春にはクランピング・マシン1 台、四幅折畳機、英国製シーヤー1台なども購入した。こう した増強により生産効率は大幅に向上した。 2.草創期の経営 余儀なくされた職工の解雇 染色工場が操業を開始した直後の1926(大正15)年 5月末の第7期決算では初めて369円の営業利益を計上 したため、職工に賃金の3割、社員に賃金の5割の初めて の賞与を支給した。さらに生産効率の向上により1926年 11月の第8期決算では一挙に6,487円余りの好成績を収 めた。 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) ■T型フォードが走る 反物の輸送はもっぱら馬が引く荷車 か大八車だったが、12月28日には当 時としては珍しい自動車、T型フォー ドが1台購入された。

32 しかし昭和期に入り、第一次世界大戦後の反動と関東 大震災による企業の不良債務を要因とする大きな経済的 混乱が生じ、銀行で前代未聞の3週間のモラトリアム(支 払い猶予)の緊急勅令が公布される事態となった。 当社では臨時の協議会を開いて、銀行の総休業への対 応策を検討した。結果、できる限り集金を行って給与など の支払いに充てる一方、振り出した手形は支払い猶予令 に準じて、その期間中になんとか方策を講じることや、緊 急措置としてやむを得ず一部の職工を解雇することとし た。このときの解雇は、常勤、臨時雇いを含め男女合わせ て78人となった。 1927(昭和2)年5月の第9期決算では1万2,218円の 赤字を計上することになったが、その後の洋服用セルな どの増産により収支は改善し、同年11月の第10期決算 では2,413円の黒字に転じた。同年に機械増設を目的と して倍額増資を行い、資本金を30万円、株主も57人から 97人に増やした。 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) ■菱Sの御輿が踊る 昭和3年、11月10日に昭和天皇の 御即位大礼式が行われた。当社は輸 出物の好調で利益があがっていたこ ともあり、11月16日に御大典奉祝 のために御輿を作り、一宮市中へ繰 り出した。御輿は菱Sマークの入った 巨大な酒樽の上に鳳凰を飾ったもの で、同じく菱Sマーク入りの衣装を着 た社員数十名がかついで練り歩いた という。 御大典奉祝の様子

33 好況に転じた毛織物業界 1928(昭和3)年、織物業界は全体として不振が続いて いたが、毛織物は活況に転じ、羊毛工業において愛知県 下の生産額は7,000万円に達し、四幅織機は3,000台に 増えた。 この影響から当社も超繁忙を極め、作業は徹夜状態が 続いた。着尺セルの目覚ましい増産もあり、1928年上期 の第11期決算では1万5,134円の利益を上げ、優先株に 年8朱という創業以来最高の配当を行った。 3.超繁忙期から苦難の時代へ 再び赤字転落 産業界全体では不況色が強まるなか、1929(昭和4) 年11月、政府は国際競争力を高めようと金解禁の省令交 付(実施は翌年1月)を予定していたが、直前の10月24日 にニューヨークの株式市場が大暴落し、世界恐慌が発生 した。輸出は不振に陥り貿易収支は悪化し、繊維業界も 大きな打撃を受けた。毛織業界もそれなりの影響は受け たが、尾西では尾西織物同業組合が同年11月に服地生 産の1,000ヤール達成祝賀会を開催した。さらに三井物 産名古屋支店が中国向けの輸出を増やしたため、上海、 漢口で尾西毛織物の展示即売会を開き、当社の売上げも 安定していた。 1930年も産業界が不況に襲われていたものの、尾西 の毛織業界はわずかながら製造、販売とも増え、当社でも 上期で1万476円という大きな利益を上げた。 転機が訪れたのは1930年下期であった。原料の続 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) 当時の本社事務所 事務所の屋根に使われた菱Sマークのかわら

34 落、需要の減退に加え、同業者が増えたことによる工賃競 争の激化により当社でも数量で前年同期比23%強、売り 上げで37%強の減額を余儀なくされ、2,873円の赤字と なった。4期続いた優先株8朱の配当も一転して無配とな り、新設備機械の導入や漂白工場の建設、自家用電力設 備の設置が見送られた。 増える従業員 昭和初期、事業の拡大に伴い従業員の数も増えていっ た。当初は100人程度であったが、輸出ものを手がけるよ うになってからは人数が増え、1930(昭和5)年ごろには 本工が250~260人、臨時工が40~50人の計300人ほ どに増えていた。そのほとんどは男子で、勤務は朝6時から 夕方6時までの12時間勤務が一般的であった。工場の職 制は技工心得、技工、組長、主任心得、主任(整理部長)、 工務長心得、工務長となっていた。 なお、当時は以下の標語が唱えられていた。 一.ソレ不注意が疵を生む 一.注意欠くれば疵となる 一.疵は利益を削るカンナと知れ 標語は社員の発案によるもので工場の各所にポスター として貼られた。 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) そろいのユニフォームで(昭和4年10月17日工場裏手)

35 県営検査の開始 1931(昭和6)年1月25日、製品検査の必要性から、愛 知県で毛織物検査制がスタートした。名古屋・一宮・津島 の3カ所に県営検査所支部が置かれ、各整理工場にも出 張所が設けられた。 県内すべての四幅織機の製品を検査の対象とし、組 織、染色整理の標準を定め、糸量と幅の制限、染色の堅 牢度試験、収縮強度などを調べ、一級品には富士マー ク、多少劣る製品には桜マークを打って合格印とした。 1931年度の検査高は1,680万m、5年後には約3.2倍の 5,454万mにまで達した。 しかしながら検査に必要な設備、場所などは染色整理 加工業者が一切無償で提供しなければならず、加工業者 には大きな負担となっていた。当社では工場内に約100 坪の検査室を増設し、当社独自の検査機器を備え付け た。当時、当社製品が他社と比べて冴えがないとの指摘が あったため、原因を調べたところ水質が良くないことが判 明し、新しいろ過装置を作って解決したことがあった。 県営検査が始まった当時、繊維業界の不況に加え、加 工賃の競争激化といった厳しい状況下にあり、これに満 州事変が追い打ちをかけ、整理業界は苦難の時代を迎え ていた。中国大陸で戦火が広がり日中関係が悪化したこ とで、尾西織物の中国への輸出の道も閉ざされていった。 尾州の織物業界 昭和初期、尾西の織物業界は一つの転換期を迎えてい た。尾州の機業は飛躍的に発展してきたものの、1工場当 たりの機械は11.1台、また10台未満の工場が6割も占め 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) 当社内県営検査試験室 試験室内部

36 ていて、個々の経営規模はきわめて小さいものであった。 これら小規模の工場は、付近の有力機業者あるいは地元 買継問屋の賃機(ちんばた)を専業としていて、小さいがゆ えに工場法に捉われることがないため、多忙な時には一 家総出による長時間労働が日常化していた。しかし、この 賃機制度も高級品が増えてくるのに伴い、その織機や技 術レベルでは対応できなくなってきており、織機の転換が 求められることになった。 さらにこの頃、洋服の需要増加とともに求められる製品 の質も、実用的なものから趣味的なものへと移り変わり、 背広地ではそれまでの紺、黒の普通サージから柄物へと 嗜好が変化していた。ただ、柄物の少量生産にはかなりの 手間と時間を要するため、大手の企業はあまり取り扱わ ず、尾州への需要は減らなかった。尾州での原料毛糸の 使用量は徐々に増えていった。 尾州では機の切換時期が年2回あり、その閑散期には 比較的単純なつくりで生地のままにしておき、随時染色が できる、市場での流通性も大きい、いわゆる据物サージを つくっていた。それらは子供服や女学生の制服に使われて いた。1932(昭和7)年には関税の引き上げと為替の暴落 により原毛毛糸が輸入されなくなったが、国内の毛糸会社 の拡張により尾州への毛糸供給が滞ることはなかった。 アンゴラサージの国民服の染色整理 昭和初期、高級服地の機業家は毛糸の買い入れは三 井物産、生産品の高級服地は鷹岡商店をはじめとする問 屋と取引をしていた。鷹岡商店は服地用毛織物の中でも 特に、柄物服地を尾州の機業者に求めていた。尾州では 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) ■生産時期の課題 尾州の毛織物は、二幅の着尺セルや ネルのように、柄の流行があってもほ とんど春・秋2季の衣料として販売 される。特に春セルなどは、12~3月 の約4か月間に1年間の全生産量の 70~80%を作ってしまう。短期間 の大量生産には常設機以外に多数 の織機が必要となり、それが元手の あまりかからない副業的な賃機制度 を生み、発展させたのである。

37 四幅織物研究会を中心にこの課題に取り組んでいたが、 もともと尾州の毛織物業界は、着尺セルからスタートし梳 毛の柄物製織には一定の技術を持っていたため、同商店 と尾州はうまく結びつくことになった。 当社はアンゴラサージで同商店と結びついた。毛織物 の新しい市場を拓くため、全国の学生に国防色の学生服 を作るという動きがあり、鷹岡商店と三井物産との相談の 結果、沼津の沼津毛織でキャップヤーンを紡ぎ、津島の横 井整絨で製織、当社が染色整理を行うことになった。試作 品を被服廠へ持ち込み検査を受けたところ、染色および 強度の点で合格点をもらい、世に送り出すことになった。 キャップヤーンは油が多くてムラになりやすく、染色に は特別の工夫が必要だったが、初めてドイツから堅牢度 の高いパラチン染料を仕入れて使い、合格した。これによ り大阪の羅紗屋のなかで柄物は艶金、反染物は当社とい う評価が確立した。 当初予定していた国防色の企画は採用されることはな かったが、紺色なら、ということで再度挑戦した結果、これ が学生服サージとして全国的に普及した。 世界恐慌の中で 1931(昭和6)年12月に金輸出再禁止が断行されて物 価が高騰し、消費者の購買力が減退したことで生産の制 限を余儀なくされる企業が生まれ、休業しなければならな い銀行も出るようになった。1927年の金融恐慌と、その 後に続く世界的な恐慌に耐え切れず、倒産する銀行が相 次いだ。1931年7月には村瀬および村瀬貯蓄の両行が休 業に追い込まれ、明治銀行も愛知銀行との合併を模索し 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) ■鷹岡商店 明治18年8月、鷹岡覚之助氏がイ ギリスからアルパカ毛の輸入をする ために創業された。業務の中心は羅 紗物の高級紳士服で、仕入先は大同 毛織、御幸毛織を主力とする老舗で ある。 鷹岡は羅紗の価値の6割を決定する 整理仕上げに着眼し、昭和2年、兵 庫県武庫川の国道沿いに武庫川整 絨所を設立。翌年に関西整絨所と改 称し、尾州羅紗の整理で好評を博し ていた。昭和12年に愛知県東春日 井郡守山町に移転し、さらにのちには 大同毛織の守山工場となった。鷹岡 の水原豊次氏は、大同の名付け親と 言われている。 ■国民服とアンゴラサージ 鷹岡は日本毛織と競い、全大阪府の 女学校の学生服の入札を勝ち取っ た。さらに、日本毛織に勝るサージと の評価を得て、全国の学生服に使わ れた。一般民需用としても柄物がよく 売れ、年間約1,200~1,300反 を生産し、これが第二次大戦が始ま るころまで続いた。 また、鷹岡は一般民需用に使う名称を 「国民服」、学生服の方を「アンゴラ サージ」として商標登録をとった。戦 時中、政府は「国民服」を奨励して普 及させたが、登録権は同社にあり、内 務省からは「使わせてもらった」との 感謝状が贈られたという。

38 たが失敗し、翌1932年3月に休業となった。これにより当 社は主要取引銀行を失い、取引銀行は名古屋銀行だけと なった。 当時、尾州毛織物は約45%を占める無地物が主力だっ たが、次第に柄物に変わっていた。この難局を打開するた め、当社では煮絨機、脱水機を各1台、耳マーク押捺機1 台、自家用電力装置を設置し、積極経営を展開した。円安 が追い風となって毛織物の輸出は好調で、工場は多忙を きわめたが、染料の値上がりが加工賃を圧迫し、仕事量 は増えたものの利益が伴わず、無配が続いた。 超繁忙期から業績不振へ 1933(昭和8)年、日本の国際連盟脱退、アメリカの金 融恐慌など国際的な重要問題が多発し、世界情勢は緊 迫度を増していたが、同年9月中旬の原糸高によって下期 の業界は好況を呈し、四幅服地類の増産によって多忙に 転じた。連日の徹夜でも注文に応じきれないほどで、前期 の倍にあたる5,000〜6,000円の利益を上げた。 当社ではこうした増産を見越して、建物、機械の増設を 進めており、染色工場28.66坪、染料室ならびに染色事 務所1棟28坪、県営検査所2棟92.5坪、染色バック中小 計16個、煮絨機1台、その他の設備を導入していた。これ らの設備をフルに稼働させ、輸出品や子供服地の整理加 工を伸ばした。 1934年にも羅紗地をはじめ国内向け毛織物を中心に 業績は好調に推移し、超繁忙期を迎えたが、1935年に かけて原糸価格の低落によって市況は一気に悪化してし まった。当社も受け渡し不能、納期遅延によってクレーム 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945)

39 が続出する事態となった。赤字にはならないものの利益が 出ず、業績は振るわなかった。仕事量は超繁忙であったも のの、営業成績は同業と比べても不振であった。 不振の原因をヒト、モノ、カネの観点から追究したが、 最終的には技術・管理の両面で十分なレベルに達してい ないことが最大の要因となっていることが次第に明らかに なってきた。セルの時代から服地の時代となり、風合いが より重視されるようになり、なおかつ後染めが主体であっ たため、技術面の立ち遅れがクレームの原因になってい たのだった。 津島出張所の開設 尾州における毛織物は当初、尾西地区より津島のほう が毛織機業の先進地であり、昭和の初めごろでも勢力は ほぼ互角であった。同地区には創業以来多くの顧客がお り、何らかの拠点を置く必要が生まれていた。そこで1927 (昭和2)年4月、津島出張所を開設した。初代の責任者 は村上房吉であった。 社員は当初村上のみ、のちに2人となったが、受注反は サージ、セルのW幅が主で、白生地の後染めがほとんどで あった。得意先は佐屋町の大野毛織、清水毛織、永和村 鹿伏兎(かぶと)の立松、津島町愛宕の松永毛織、阿古川 町の大鹿半三、日光町の吉原紡績、三興毛織など50軒ほ どであった。 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) ■風合い 風合いとは、一言でいえば、織物の 手ざわりのこと。実際、毛織物は、艶、 色、柄などの視覚的な判断だけでな く、手で握ったり指先でもんでみて、 織物の曲げやすさ、伸びやすさ、硬 さ、腰の強さ、柔らかさなどの総合判 断でその品質が評価されている。重 要なのは含有水分の量で、その多寡 によって、肉がある、腰がある、張りが あるなど、さまざまな表現がなされて いる。 津島出張所所長・村上房吉

40 軍需品の染色整理 1938(昭和13)年5月に国家総動員法が実施され、ほ とんどの物資やエネルギーが政府の統制下に置かれるこ とになった。業界関連では毛織物製造制限、繊維工業設 備許可制、羊毛製品の義務輸出制(リンク制)をはじめ毛 糸や繊維製品の販売価格取締規則が実施された。 そうしたなかで生産は軍需品に集中することになり、大 手紡績会社だけでなく尾西をはじめとする各地の毛織業 者にも注文が出された。当社も1938年10月から軍需用 毛布の染色、起毛割り当てがあり、翌11月の整理染色総 加工賃5万3,474円余りのうち軍需品が1万5,175円を 占めた。 1939年には原糸統制による事業難のため、当社で副 業として絨氈(じゅうせん)類の製造販売加工整理を行う 絨氈部を設けた。工場が同年10月末に完成し、11月下旬 には一部操業を開始した。 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) 津島出張所(旭時代) ■1トン車で仕事 毎日午前10時ごろ本社からくる社 用車に同乗して機屋を回り、検定所 へ持っていって検査を受けた反物を 積んで11時ごろに事務所に帰着。 3時ごろまで待機し、4時には車が 本社へ帰るという、しごくのんびりし た毎日であったという。 しかし、津島での蘇東興業の勢力は 大きく、そのころはまだ珍しかった1ト ン車を乗り回していたこともあり、町 では注目の的であった。

41 統制は徐々に強化され、繊維業界も生産品種、品質 などにおいて一元的に統一され、当社には羅紗地やオー バー地の指定生産品の入荷が急増し、その対応に苦労し た。絨氈部は引き続き軍需品加工に専念していた。 指定生産による厚物地と染色品の増加により、1941年 下期の第38期の利益は3万5,000余円と、戦前の最高記 録を達成した。 1941年12月8日、わが国は米英両国に宣戦布告を行 い、太平洋戦争が始まった。 4.戦時統制下の経営 協和興業有限会社の設立 太平洋戦争に突入すると各種の統制が一段と強化さ れ、国家経済の強化を目的として企業合同が真剣に討議 されるようになった。 太平洋戦争による戦時体制がさらに強化された1942 (昭和1 7)年3月、当社と艶由整理工場、山直毛織、中 野毛織の4社が出資して新会社を設立した。これが生産 品の一括受注、資材の共同購入をはじめ事業の統一を 図り、生産拡充を進めることを目的とする協和興業有限 会社である。資本総額は12万円で、1口5,000円で全24 口に分け、当社は6口3万円を出資した。同社は商工省の 指導のもとで乾燥機10台以上を1単位として企業合同を 行ったもので、当地区にあった約1,000の機業者は47の 企業体にまとめられた。生産はすべて指定品となり、原料 も大部分が配給制となった。 当社も電力の削減、原材料や燃料の制限などに苦しみ 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) 協和興業有限会社出資証券

42 ながら指定生産の確保に努めたが、生産は整理加工も染 色も大幅な低下を余儀なくされた。絨氈部も輸出および 国内向け羊毛小型フェルトを製作して好評を得たが、原 料や資材不足で一部しか運転できなかった。石炭が亜炭 に変わったため、亜炭粉砕機を購入したほか、輸出絹織 物染色業許可申請書を商工大臣に提出し、1942年10月 30日に工場設備の許可をとった。 絨氈部と中部製絨の合併 1943(昭和18)年、戦局は悪化の様相を呈し、繊維業 界も軍需作戦との一体化が図られた。航空機の部品製作 用として金属の回収が指示され、当社も軍用毛布整理に 使う染整機以外の設備を供出せざるをえなかった。 1943年4月23日、当社にとってもう一つの企業合同と なる当社絨氈部と浜松の中部整絨株式会社との合併が 協議され、同年6月、両社の代表取締役ならびに監査役に よって調印された。当社は絨氈部門の機械設備を現物出 資し、同社の株式1,200株の交付を受けた。同年9月20 日付で合併し、10月1日に登記を完了した。 1944年になると戦況はさらに悪化し、原材料不足、人材 不足は深刻度を増したが、当社は比較的好調を維持した。 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) 当社へ派遣されてきた学徒動員の学生たち

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