ソトー100年史 1923-2023

36 ていて、個々の経営規模はきわめて小さいものであった。 これら小規模の工場は、付近の有力機業者あるいは地元 買継問屋の賃機(ちんばた)を専業としていて、小さいがゆ えに工場法に捉われることがないため、多忙な時には一 家総出による長時間労働が日常化していた。しかし、この 賃機制度も高級品が増えてくるのに伴い、その織機や技 術レベルでは対応できなくなってきており、織機の転換が 求められることになった。 さらにこの頃、洋服の需要増加とともに求められる製品 の質も、実用的なものから趣味的なものへと移り変わり、 背広地ではそれまでの紺、黒の普通サージから柄物へと 嗜好が変化していた。ただ、柄物の少量生産にはかなりの 手間と時間を要するため、大手の企業はあまり取り扱わ ず、尾州への需要は減らなかった。尾州での原料毛糸の 使用量は徐々に増えていった。 尾州では機の切換時期が年2回あり、その閑散期には 比較的単純なつくりで生地のままにしておき、随時染色が できる、市場での流通性も大きい、いわゆる据物サージを つくっていた。それらは子供服や女学生の制服に使われて いた。1932(昭和7)年には関税の引き上げと為替の暴落 により原毛毛糸が輸入されなくなったが、国内の毛糸会社 の拡張により尾州への毛糸供給が滞ることはなかった。 アンゴラサージの国民服の染色整理 昭和初期、高級服地の機業家は毛糸の買い入れは三 井物産、生産品の高級服地は鷹岡商店をはじめとする問 屋と取引をしていた。鷹岡商店は服地用毛織物の中でも 特に、柄物服地を尾州の機業者に求めていた。尾州では 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) ■生産時期の課題 尾州の毛織物は、二幅の着尺セルや ネルのように、柄の流行があってもほ とんど春・秋2季の衣料として販売 される。特に春セルなどは、12~3月 の約4か月間に1年間の全生産量の 70~80%を作ってしまう。短期間 の大量生産には常設機以外に多数 の織機が必要となり、それが元手の あまりかからない副業的な賃機制度 を生み、発展させたのである。

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