ソトー100年史 1923-2023

37 四幅織物研究会を中心にこの課題に取り組んでいたが、 もともと尾州の毛織物業界は、着尺セルからスタートし梳 毛の柄物製織には一定の技術を持っていたため、同商店 と尾州はうまく結びつくことになった。 当社はアンゴラサージで同商店と結びついた。毛織物 の新しい市場を拓くため、全国の学生に国防色の学生服 を作るという動きがあり、鷹岡商店と三井物産との相談の 結果、沼津の沼津毛織でキャップヤーンを紡ぎ、津島の横 井整絨で製織、当社が染色整理を行うことになった。試作 品を被服廠へ持ち込み検査を受けたところ、染色および 強度の点で合格点をもらい、世に送り出すことになった。 キャップヤーンは油が多くてムラになりやすく、染色に は特別の工夫が必要だったが、初めてドイツから堅牢度 の高いパラチン染料を仕入れて使い、合格した。これによ り大阪の羅紗屋のなかで柄物は艶金、反染物は当社とい う評価が確立した。 当初予定していた国防色の企画は採用されることはな かったが、紺色なら、ということで再度挑戦した結果、これ が学生服サージとして全国的に普及した。 世界恐慌の中で 1931(昭和6)年12月に金輸出再禁止が断行されて物 価が高騰し、消費者の購買力が減退したことで生産の制 限を余儀なくされる企業が生まれ、休業しなければならな い銀行も出るようになった。1927年の金融恐慌と、その 後に続く世界的な恐慌に耐え切れず、倒産する銀行が相 次いだ。1931年7月には村瀬および村瀬貯蓄の両行が休 業に追い込まれ、明治銀行も愛知銀行との合併を模索し 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945) ■鷹岡商店 明治18年8月、鷹岡覚之助氏がイ ギリスからアルパカ毛の輸入をする ために創業された。業務の中心は羅 紗物の高級紳士服で、仕入先は大同 毛織、御幸毛織を主力とする老舗で ある。 鷹岡は羅紗の価値の6割を決定する 整理仕上げに着眼し、昭和2年、兵 庫県武庫川の国道沿いに武庫川整 絨所を設立。翌年に関西整絨所と改 称し、尾州羅紗の整理で好評を博し ていた。昭和12年に愛知県東春日 井郡守山町に移転し、さらにのちには 大同毛織の守山工場となった。鷹岡 の水原豊次氏は、大同の名付け親と 言われている。 ■国民服とアンゴラサージ 鷹岡は日本毛織と競い、全大阪府の 女学校の学生服の入札を勝ち取っ た。さらに、日本毛織に勝るサージと の評価を得て、全国の学生服に使わ れた。一般民需用としても柄物がよく 売れ、年間約1,200~1,300反 を生産し、これが第二次大戦が始ま るころまで続いた。 また、鷹岡は一般民需用に使う名称を 「国民服」、学生服の方を「アンゴラ サージ」として商標登録をとった。戦 時中、政府は「国民服」を奨励して普 及させたが、登録権は同社にあり、内 務省からは「使わせてもらった」との 感謝状が贈られたという。

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