38 たが失敗し、翌1932年3月に休業となった。これにより当 社は主要取引銀行を失い、取引銀行は名古屋銀行だけと なった。 当時、尾州毛織物は約45%を占める無地物が主力だっ たが、次第に柄物に変わっていた。この難局を打開するた め、当社では煮絨機、脱水機を各1台、耳マーク押捺機1 台、自家用電力装置を設置し、積極経営を展開した。円安 が追い風となって毛織物の輸出は好調で、工場は多忙を きわめたが、染料の値上がりが加工賃を圧迫し、仕事量 は増えたものの利益が伴わず、無配が続いた。 超繁忙期から業績不振へ 1933(昭和8)年、日本の国際連盟脱退、アメリカの金 融恐慌など国際的な重要問題が多発し、世界情勢は緊 迫度を増していたが、同年9月中旬の原糸高によって下期 の業界は好況を呈し、四幅服地類の増産によって多忙に 転じた。連日の徹夜でも注文に応じきれないほどで、前期 の倍にあたる5,000〜6,000円の利益を上げた。 当社ではこうした増産を見越して、建物、機械の増設を 進めており、染色工場28.66坪、染料室ならびに染色事 務所1棟28坪、県営検査所2棟92.5坪、染色バック中小 計16個、煮絨機1台、その他の設備を導入していた。これ らの設備をフルに稼働させ、輸出品や子供服地の整理加 工を伸ばした。 1934年にも羅紗地をはじめ国内向け毛織物を中心に 業績は好調に推移し、超繁忙期を迎えたが、1935年に かけて原糸価格の低落によって市況は一気に悪化してし まった。当社も受け渡し不能、納期遅延によってクレーム 第2章 │ 蘇東興業の誕生と戦時下の経営(1924~1945)
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